Thursday, May 5, 2011

さあ、一歩、一緒に前へ、強く、確実に Essay written by Kurumi (Grade 6)

さあ、一歩、一緒に前へ、強く、確実に

サンモール.インターナショナルスクール 六年     

すべてが始まったのは三月十一日二時四十六分でした。私は何人かのクラスメートとパソコン教室にいました。その日は卒業アルバムのコラージュの締め切りの日でした。地震の直前、私はコラージュがなかなか終わらなくてイライラしていました。
「何か起きないかな。地震でも来たら、締め切りも今日じゃなくてすむのに。」
と言ったその時でした。誰かが、「地震だ!」と叫んで、全員机の下に隠れました。最初は「やった!」と思っていて、怖さもあまり感じませんでした。でも、後からまた誰かが「宮城で津波だ!」と言っているのを聞くと、だんだん怖くなってきて、いつの間にかいつもは心配しない犬の事も心配になってきました。そして、それほど大きなことになるとは思いもしませんでした。その後、私は母と連絡がつき、その日は友人と学校のすぐ隣にある伯父の家に泊まり、次の日に車で送ってもらいました。
この震災によって、何万人もの人たちが命をおとしました。また、日本の経済にも大きな影響をおよぼしました。行方不明者も多数存在します。南の方では被害はありませんでしたが、東北の方に住んでいた身内の人たちがなくなられた人々もいます。このように、この震災は日本中に影響をおよぼしているのです。
私も実際に計画停電で長い間暗くなっていた時もありました。特に、八時くらいから十時半までの停電は家中が真っ暗で、家族とロウソクをつけながら行動していました。たいくつな時は祖母の携帯電話でニュースを聞いていました。寒い時は鍋にお湯を入れ、ガスで体を温めました。私が特に苦労したのは、いつ停電になるのかが分からなかったことです。ニュースでは七時からと言っていても、八時に停電になったりして、準備もしていたのに、なかなか電気が消えず、忘れたころに消えたりしました。また、停電が地域ごとに分けられていて、最初は五グループだったのが二十五グループになったので、常にテレビでチェックしていました。今は停電はありませんが、いつまたあるのかが心配です。
また、テレビで流された家をみると、四年前私が経験したことを思い出します。四年前、私の家はリフォームをしていて、屋根もちゃんとなっていませんでした。その時に大きな台風があり、私の住んでいる所が中心地だったのです。台風があった時、私は母と祖母と一緒に寝ていて、水が天井からポトポトと落ちてき、起きたら体中に祖母がビニールをまいていてびっくりしました。その後、三人で家中まわったら、ほとんどの部屋が水浸しでした。この台風で思い出のアルバムや、家族から代々受け継いでいた物が全部だめになりました。未だに見つからない物もたくさんあります。今回の津波よりはひどくありませんが、気持ちは少しわかります。

この災害であらためて「自然」は恐ろしいという事を感じました。一秒前までは家族も家もあった人たちが、一瞬のうちにすべてを失ってしまうのです。ニュースを見ていると、家族の思い出のアルバムを探している人もいました。この震災で親をなくした子供たちは100人以上いました。その子たちはこれからどういう未来を歩いていくのでしょう。二十年後はどういう気持ちでいるのかは、私には分かりません。でも、その子供たちは一生懸命明日に向かって頑張っているのは確かです。テレビや広告ではみんな「がんばれ、日本」と言っていますが、みんな頑張っているのです。日本中が手を組み、頑張っているのです。国外からも義捐金が多く寄せられています。世界中が日本の復興を願っているのです。
「平和」とは、ごく普通に生きていくことなのではないでしょうか。今被災されている人々が一番必要としているのは家族、そして生きていくために必要な最低限の物なのではないでしょうか。今私たちができることは被災地に支援物資を送ったり、被災者を実際にホームステイさせたりするのも良いかもしれません。しかし家や家族をなくした人々の傷は一生いえないでしょう。心の中にある大きな穴をうめることも私たちにはできません。また、放射能汚染のこともあまりパニックにならず、何事もないように暮らしていくことによって、明るい未来をつくることができるのではないでしょうか。そして、日本が復興するには、私たちみんなが前を向いて生きていくことが一番の解決法だと私は思います。国自体が治らなくても、人々がみな明るい気持ちならいつかまた幸せに暮らせるのではないでしょうか。

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